宮沢 賢治

 苔いちめんに、霧がぽしゃぽしゃ降って、蟻の歩哨は鉄の帽子のひさしの下から、するどいひとみであたりをにらみ、青く大きな羊歯の森の前をあちこち行ったり来たりしています。
 向こうからぷるぷるぷるぷる一ぴきの蟻の兵隊が走って来ます。
「停まれ、誰かッ」
「第百二十八聯隊の伝令!」
「どこへ行くか」
「第五十聯隊 聯隊本部」
 歩哨はスナイドル式の銃剣を、向こうの胸に斜めにつきつけたまま、その眼の光りようや顎のかたち、それから上着の袖の模様や靴のぐあい、いちいち詳しく調べます。
「よし、通れ」
 伝令はいそがしく羊歯の森のなかへはいって行きました。
 霧の粒はだんだん小さく小さくなって、いまはもう、うすい乳いろのけむりに変わり、草や木の水を吸いあげる音は、あっちにもこっちにも忙しく聞こえだしました。さすがの歩哨もとうとうねむさにふらっとします。

 どれもみんな肥料や薪炭をやりとりするさびしい家だ。街道のところどころにちらばって黒い小さいさびしい家だ。それももうみな戸を閉めた。
 おれはかなしく来た方をふりかへる。盛岡の電燈は微かにゆらいでねむさうにならび只公園のアーク燈だけ高い処でそらぞらしい気焔の波を上げてゐる。どうせ今頃は無鉄砲な羽虫が沢山集ってぶっつかったりよろけたりしてゐるのだ。

 私はふと空いっぱいの灰色はがねに大きな床屋のだんだら棒、あのオランダ伝来の葱の蕾の形をした店飾りを見る。これも随分たよりないことだ。

 道が小さな橋にかゝる。螢がプイと飛んで行く。誰かがうしろで手をあげて大きくためいきをついた。それも間違ひかわからない。とにかくそらが少し明るくなった。夜明けにはまだ途方もないしきっと雲が薄くなって月の光が透って来るのだ。

 向ふの方は小岩井農場だ。
 四っ角山にみんなぺたぺた一緒に座る。
 月見草が幻よりは少し明るくその辺一面浮んで咲いてゐる。マッチがパッとすられ莨の青いけむりがほのかにながれる。
 右手に山がまっくろにうかび出した。その山に何の鳥だか沢山とまって睡ってゐるらしい。

 おれはその時その青黒く淀んだ室の中の堅い灰色の自分の席にそわそわ立ったり座ったりしてゐた。
 二人の男がその室の中に居た。一人はたしかに獣医の有本でも一人はさまざまのやつらのもやもやした区分キメラであった。
 おれはどこかへ出て行かうと考へてゐるらしかった。飛ぶんだぞ霧の中をきいっとふっとんでやるんだなどと頭の奥で叫んでゐた。ところがその二人がしきりに着物のはなしをした。
 おれはひどくむしゃくしゃした。そして卓をガタガタゆすってゐた。
 いきなり霧積が入って来た。霧積は変に白くぴかぴかする金襴の羽織を着てゐた。そしてひどく嬉しさうに見えた。今朝は支那版画展覧会があって自分はその幹事になってゐるからそっちへ行くんだと云ってかなり大声で笑った。おれはそれがしゃくにさわった。第一霧積は今日はおれと北の方の野原へ出かける約束だったのだ、それを白っぽい金襴の羽織などを着込んでわけもわからない処へ行ってけらけら笑ったりしやうといふのはあんまり失敬だと おれは考へた。
ところが霧積はどう云ふわけか急におれの着物を笑ひ出した。有本も笑った。区分キメラもつめたくあざ笑った。なんだ着物のことなどか きさまらは男だらう それに本気で着もののことを云ふのか、などとおれはそっと考へて見たがどうも気持が悪かった。それから今度は有本が何かもにやもにや云っておれを慰めるやうにした。
おれにはどういふわけで自分に着物が斯う足りないのかどう考へても判らなくてひどく悲しかった。そこでおれは立ちあがって云〔っ〕た。